三社祭とは

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三社祭とは

浅草神社の氏子四十四ヶ町を中心に五月の第三土曜日を基点とした金・土・日曜日に行われ、江戸風情を残しつつ勇壮且つ華やかな神輿渡御を主として、三日間に亘り約百八十万人の人出を数える日本を代表する祭礼の一つです。
江戸風情の残る下町浅草が1年でもっとも活気付くと云われ、東京の初夏を代表する風物詩の一つになっています。

初日は、お囃子屋台をはじめ鳶頭木遣りや浅草の各舞、また芸妓連の手古舞や組踊り等で編成された「大行列」が浅草の町に祭礼の始まりを告げ、東京都無形文化財指定の「神事びんざさら舞」も奉納されます。
二日目には、「例大祭式典」が斎行され、その後に「町内神輿連合渡御」によって浅草氏子四十四ヶ町の町内神輿約百基が神社境内に参集し、一基ずつお祓いを受けて各町会を渡御します。
最終日は、宮神輿三基「一之宮」「二之宮」「三之宮」の各町渡御として、早朝には神社境内から担ぎ出される「宮出し」が行われ、日中は氏子各町を三方面に分かれ渡御し、日没後に神社境内へ戻る「宮入り」を迎えて祭礼行事が終わります。
期間中は浅草の街がお祭り一色に彩られ、神社では各神事が斎行されると共に、境内や神楽殿においても様々な舞踊が披露されます。

神事びんざさら舞

浅草神社の神事として三社祭で踊られる田楽舞であり、現在は東京都無形民俗文化財に指定されています。
田植え行事が芸能化されたものであり、紅白の紙を散らし籾撒きに見立て、楽器である編木(ささら)で音を奏でる事により五穀豊穣や悪霊退散の願いが込められると共に、そこに獅子舞が合わされて子孫長久や悪病祓いも祈願されます。

神輿について

神輿は祭礼にあたり、神幸祭に際して、ご神体あるいは御霊代がお乗りになる輿の事をいいます。

神幸とは、ご神体が御旅所(神幸の中継地、および目的地となるところ)に渡御することをいいます。このとき、氏子達が担いで各地区を練り歩きますが、こうすることで神様に各地区をご覧頂くのです。

神幸の途中、神輿を上下左右に振り動かしたり、わざと荒々しく揺さぶることで、神輿に坐す神様の「魂振り(たまふり)」を行い、これにより神様の霊威を高め、豊作や豊漁、疫病の退散がなると信仰されているのです。

浅草神社には3基のお神輿があり、祭礼の際は、一之宮には土師真中知命、二之宮には桧前浜成命、三之宮には桧前武成命の御神霊をそれぞれお移しし、町中を渡御します。

宮神輿

戦前は家光公より寄進された神輿三基とその保存の為に新調した三基、更には氏子町会より寄贈された一基(四之宮)と合わせて七基の神輿がありましたが、先の大空襲により惜しくも全て焼失してしまいました。

現在の神輿は、一之宮・二之宮が昭和二十五年に、三之宮が昭和二十八年に氏子により奉納されたもので、胴が細く屋根四隅の蕨手が大きい近代的な造りとなっており、一之宮の頭には鳳凰が、他二基には擬宝珠が飾られています。

当時、神輿庫には新旧7基のお神輿があった。
大正12年5月撮影

四之宮

元々は町神輿として田町で作られたお神輿でした。しかしあまりに重かったため、町会で担ぐ人がいなくなり、浅草神社へ奉納されました。祭礼の際は、東照宮の御神霊をお移しし、四之宮として担がれるようになりました。

重いといっても他の三基の宮神輿に比べると軽く、動きやすかったため、担ぎ手がわざと乱暴に担ぐ事もあったため、『暴れ神輿』の異名をとっていたそうです。

※四之宮は戦災で焼失しております。

 

昔の祭礼(観音祭・船祭)

昔の祭りは3月17日、18日の両日に行われ、丑、卯、巳、未、酉、亥の1年おきに本祭が行われました。

正和元年(1312)から三社の神話に基づき船祭が始められたと云われています。

江戸時代には大祭前夜、神輿を観音本堂の外陣に安置されました。びんざさら舞も堂前の舞台で行われていました。そのことからもわかる通り、当時は浅草寺と一体となった祭りで、「観音祭」又は「浅草祭」と呼ばれました。
昔の氏子は観音の縁日にちなみ十八ヶ町あり、南から諏訪町、駒形町、三間町、西仲町、田原町、東仲町、並木町、茶屋町、材木町、花川戸町、山之宿町、聖天町、浅草町、聖天横町、金竜山下瓦町、南馬道町、新町、北馬道町、田町がそれでした。このうち材木、花川戸、聖天を宮元三ヶ町と呼び、すべてを総称して浅草郷とも千束郷とも云いました。

祭礼は今のように本社神輿をかつぎ廻ることよりも、むしろ氏子十八ヶ町や、片町、茅町、天王町、黒船町、三好町などから繰り出された山車が中心で、各町がおのおのの趣向で行列の勢いと絢爛さを競い合ったようです。この様に昔の祭礼は蔵前筋や浅草橋の各町にまで及ぶ広範囲のものでした。

祭礼当日の早朝、山車を中心とする祭礼行列は浅草見附の御門外に集合しました。

御蔵前から諏訪町、並木町と並んで仲見世から境内に入り、観音堂に安置された神輿の前に参詣の上、おのおのの芸能を演じ、随身門(二天門)を出て自分の町へ帰りました。これが終わると「お堂下げ」と云って神輿三体を本堂からおろし、一之宮を先頭に浅草御門の乗船場まで担ぎます。待機していた大森在住の漁師の供奉する船に神輿をのせ、浅草川(隅田川)を漕ぎあがって駒形から上陸し、浅草神社にかつぎ帰ったと云われています。この船祭は江戸末期まで続きました。明治に入って廃絶し、明治五年から5月17日、18日の両日に祭礼を行い、現在の氏子各町に神輿の渡御を行うようになりました。